谷じゃこ短歌集『ヒット・エンド・パレード』を読んだのは夏なのに、もう秋になって冬が目の前

神秘性みたいなものが欲しいのでストッキングは月光で干す

谷じゃこさんの短歌集『ヒット・エンド・パレード』の衝撃は、この1首にあると思います。短歌を作ろうとするとき、恐らく大抵の人は(少なくとも私は)【何でもない風景に叙情を見つける】ような姿勢で世界を見ようとするのだけれど、谷じゃこさんはそれを見事に覆してくれます。夜中に干しているストッキングに神秘性を見つけるのではなくて、神秘性を作り出すために夜にストッキングを干すのです。叙情なんてこんなもんでしょと、突きつけられているようでどきっとします。

西宮北口でまず乗り換えなあかん火星に攻めこむときも
死んでいるたまごの中で比較的元気なほうのたまごください
感動?どう?感動してる?夕焼けの残像を見て感動してる?

1首目はSFの映画ではカットされてしまう場面。現実に生きる私たちは日常から逃げ出すことができないのです。西宮北口という駅名も日常と非日常の中継地点のような特別なイメージを喚起して胸に迫ります。
2首目、売られているたまごは全部死んでいるということは、みんな考えないようにしていることなのに、それを見過ごさない視線に魅力があります。しかもそれに絶望しているわけでもない、あっけらかんとした様子がさらに魅力的。
3首目は厳しい問いを突きつける歌だと思います。世間に溢れている「感動」に込められた偽善。それを何度も問いかけられて、読者はうろたえるしかない。

見ていたら夜が終わるのではなくて朝が始まるのだとわかった
川の向こうの街の向こうに川があるグーグルマップで見て知っている
世界中(特にあなたが行きそうな所に)ひょんなことをばらまく

谷じゃこさんは偽善から目を逸らさない。だから彼女の目に映る世界の美しさは、特別な純粋さを保っている。夜の終わりと朝の始まりに境界のないこと、自分の住む街のずっと向こうにも世界が広がっていること、あなたが「ひょんなこと」でいつでも楽しめるような世界。
彼女はそういう世界を作ることができるのです。

谷じゃこ短歌集『ヒット・エンド・パレード』 http://sabajaco.theshop.jp/items/4307114

(2016.11.16)

『マチネの終わりに』について書きたい夏だった。

平野啓一郎の『マチネの終り』は、二人の男女の恋愛模様がストーリーの最大のテーマで、二人が恋をしてしまったがゆえに起こるさまざまな出来事によって物語は進むのだけれど(それがとても心を掴むからとても好きなお話だったのです)、その根底にあるのは、

もうひとつの、あったかもしれない世界への狂おしいほどの憧憬と恐怖

でした。

私たちが生きている時間の中にはいくつもの分岐点―それは意図的でも恣意的でも、自分が決断したことでも他人の手によるものであっても―があって、その先には選ばれなかった方の世界がいくつも取りこぼされてあるのではないか。

例えば傘を持って出掛けたかそうでなかったか、というような小さなことで、びっくりするような出会いがあるかもしれない、あるいはその出会いを逃してしまうかも知れない。選ばれなかった世界では私たちはどう生きているのだろう、ということが根源的なものとして描かれていて、

ああこの不思議な感覚に私もよく支配されている

と、その共感に飲み込まれるように読みました。

「過去は変えられる。」

『マチネの終わりに』のいちばん重要な台詞はこれだと思います。
過去は常に現在から照射されるものだから、どんな現在から見るかによって、過去のある場面がさまざまに表情を変えるということ。

木村敏は『時間と自己』において「それぞれのの両方向へと開かれた拡がりとしてのであることによって、時間の推移というよりはとして理解しなくてはならないものである。」と言っています。
このことを主人公の蒔野と洋子は物語の中に流れる長い長い時間を通じてわたしたちに訴えているのかもしれないと思いました。

(2016.09.05)

弦楽

凍るから氷 ふたりの目の前で溶ける静かな弦楽だった
割れているクッキーをくっつけているその傷口は乾いたままで
出会わない方の世界の黒猫が出会う世界を横切ってゆく
屋上で折り返すエレベーターが誰も乗せてこないビルディング
君と見る海と君と見ることのない海がどこかで繋がっている

(平野啓一郎『マチネの終わりに』のふたりを思って。)

(2016.09.05)

タクシーを先に降りる

ライターに名前を彫っておくような風が朝から吹いていたんだ
涼風は肱から上の柔らかいところを野原とまちがえている
音だけの花火を見てるベランダの汚れたサンダルをつっかけて
枝豆が唇から飛び込んできて花火師の指先を思った
殻だけになった枝豆重なってわたしわたしきみきみわたしきみ
タクシーを先に降りればタクシーを見ている人と乗っている人
ここからはひとりっきりの帰りみち眠ってしまえば私も消えて

(2016.08.07)